クルフィーの色~インド.料理.旅など~

ひたすらインドとヒンディー語について綴られるブログです

何もない空っぽの自分

なんだか、私には何もないと感じることがあります。

去年の夏からそんな時間が増えました。気づけば会いたい人もいなくなり、行きたい場所もなくなり、食べたいものもなくなっていきます。

人間なので、体のリズムで思考が左右されることもあります。でも、そんな体の不調時を除けば、何も考えが浮かばなくて、何も欲しがらなくて、本当に私には何もないと感じることがあります。

そんな時間はすごく楽ではあります。あれが欲しくてたまらないけれど手に入らないとか、誰かに会いたいのに会えなくて寂しいとか、そういう苦痛が全くないのです。もはや感情すらないです。

その一方で、人間らしくないなとも自分の姿が見えます。本当に何も欲しいものはないのかなって、考えることにもつながります。ただ、穏やかでいられているので、とりあえず何もなくていいやって、収まります。

いつもブログを書けるときは、何かがあるときです。自分の欲求とか、葛藤とか、知識とか。今日はというと、昨夜の時点でいろんなことが渦巻いて、なんかブログに書けそうだなって思ってから、記事作成画面を開いています。それなのに、1時間くらい何も書くことが思いつかなくて、なんかやっぱり何もなさそうだって思って記事作成画面を何回か閉じていました。

昨夜は体調と出来事が色々と重なって、気持ちの浮き沈みが激しかったのですが、今朝になったら体調が平常に戻っていたらしく、ブログに書けそうだなと思ったことも、今思い浮かばなくなってしまいました。

 

私が何もないと感じる瞬間は、たとえば食べ物で言うと、このレストランに行ってみたいとか、日本のこれが絶対に食べたいとか、そういう気持ちが起こらないときです。私はかなり酒飲みなのですが、アルコールも自ら進んで飲まなくなりました。甘いのものも大好きですが食べず、辛いものも今はチリパウダーを全く使わずにカレーを作ったりしています。無くても生活できるものが、どんどん減っていくんです。

インドにも、全く行かなくて平気です。この先一生行けないと決まったとしても、何もない状態の私にはなんの影響もありません。

日本ですら、行く理由がないのです。欲しいものもないし、食べたいものもない、行きたい場所もない、会いたい人もいない。

最近は日本にいる親戚に、私に会えない寂しさから、日本に戻ってこないのか、親不孝だとか罵られました。それでも、私は寂しくないですし、みんな元気で幸せでいてくれればいいなと、ただそう思います。実際、日本にいないのは私一人なのです。彼らには周りにたくさんの親族がいて、もっと簡単に会うこともできます。むしろ私の方が海外で一人でいるので、日本の親族はここに誰もいないのです。私がいないから自分達が不幸せだ、あの人が悲しんでる、そんなふうに思っても無駄だと思うのですが。その人たちが会いたいと望んで、私がすぐに日本に向かえればいいのですが、コロナに戦争が起こっている近年、思うように帰れません。

 

友達にも会いたいという気持ちがなくなりました。自ら会いに行こうという気持ちがないだけで、会えるのは嬉しいと思います。きっと楽しいでしょう。でも、今は友人たちがそれぞれ元気でいてくれればいいなとだけ思います。

 

こちらでの日本人の付き合いも一切していません。会いたい人がいません。

こちらで、日本人に意図的に悪い言葉をかけられることが、ここ数年で多かったです。そんな言葉を使わない人は、お互いに会わなくても幸せなので、会おうということになりません。わざわざネガティブな言葉を聞きに会いにいったり交際費をかける気にはならないので、ちょうどいい出来事なんかが重なったりして、会う機会を消しました。

仕事もないので、やることが何にもありません。あまりに私は仕事がない人生を送ってきて、仕事したくてもする機会に恵まれず、いい加減に執着するのをやめようと思い始めました。仕事したくても、逆に仕事したく無くても、私に仕事はないものはないのです。それに振り回され苦しむ自分が無意味すぎて、もはや関与したくありません。自分が働きたい欲求をなくして、周りを気にしなくなるようになったらいいです。

以前人に言われて酷く憤りを感じたのが、「仕事をしなくてもいい」っていうことでした。私が仕事をしたいのにどこにも雇ってもらえない人生を歩んで、雇ってもらえても仕事がないから苦しんでいるというのに、どうしてそんな心無い言葉を本気で私に言えるのだろうとそのときは思いました。私の仕事が見つかったかどうか、こちらから何も話さないのに、相手から振ってくるんですよね。その人は私が働かなくても生活できている状況をひどく妬んでいて、仕事をしないで東京の一等地の高層マンションに住むことを夢見ている人でした。私にはその人が望むような超高級マンションを買うお金は持っていませんし、仕事があるなら喜んで働くでしょう。その人の方が働いているのでよっぽどお金を持っているでしょうし、私からその人に一度も会いたいと言ったことはありません。それでもわざわざ私を呼び出し、妬んで、私の働きたい気持ちを無視して、お金あるんだから働かなくていいと言ったのでした。

仕事したくないなら辞めればいいと思います。私が仕事をさせているわけではなく、その人が自分で選んだ仕事について収入を得ているわけです。私を妬んでもその人が望む夢の生活は、その人にしか手に入れられません。私がほぼ無収入でも生きられているのは、単に周りの人がこんな何もない私でも支えてくれる人ばかりだからです。それから高級マンションでなくても、居住環境に満足できて、お酒も飲みに行かず、今となっては高級な食材や外食にも興味がなく、自分の身の丈に合った生活を満足して受け入れているからです。決して高級マンションでワインを飲んで食事したいというその人の夢のような生活は送りませんし、無職でまったくお金持ちな人間ではないのに、その人はもはや幻想の私に嫉妬していました。実際の私はどこにも雇ってもらえないような人間で、その人が妬む価値もありません。何にもない、何にもできない、そんな人間を、なぜしつこく誘い続け嫉妬に駆られてイライラしながら過ごしたのか、本当にわかりませんでした。私に構っても利益はないですし、ネガティブな感情で溢れるだけです。

もし私がその人の立場だったら、仕事がある人が、仕事したくてもできなくて苦しんでいる人に対してそんな言葉をかけられません。高級マンションに住まなくてもいいのでは、などと私が言うこともないでしょう。欲しいのに手に入らなくて辛い人に対して、そんな言葉はかけられません。

その場にはもう一人、私に仕事しなくていいじゃんと言った人がいて、その人は不妊で悩んでいたのですが、仮に子供がいる人から「子供いなくていいじゃん」と言われたらどう感じるのでしょう。その人も仕事したくない人でしたけど、もしそれで仕事のない私を妬むのなら、ただ仕事しなければいいと思います。お金が欲しいから仕事しているんでしょう。私もお金が欲しいから仕事したいです。何もなくて暇な時間をお金に変えたいです。そのときは仕事のない私をその人たちが羨んで、もはや妬んでいるというのがひしひしと伝わってきていて、その人たちの話す内容もわざわざ人が不幸に感じていることばかりだったので、もう飲みに誘われて付き合うのも最後だなと感じました。

妬むと言うのは、その人が不幸であればいいのにと願っているようなものではないでしょうか。その人にお金がなければいいのに、名声がなければいいのに、美しくなくて異性から振り向かれなければいいとか、転落して幸せでなければいいのにと。

似たように、結婚したいのに相手に巡り会えない人がいて、既婚の人に「結婚しなくたっていいじゃないか」と言われたら、どう感じるでしょう。

努力をしても、子供を授かったり、結婚したりできるものでもないでしょう。すでに結婚して子供も産まれている、夢を手に入れている人からそんなものなくていいと言われても、反発したくなりませんか。苦しんでいる人は、それを得るために必死になって努力している最中なのだと思います。それにもかかわらず、その努力もわかろうとせず、ただ無責任な言葉をかけるのは、心無いと思うのです。考えによっては定められた運命には抗えないですし、未来は自分で変えられるとして、前向きに努力したからといって望んだ結果が得られるかはわかりません。持って生まれた体や容姿、環境などがこの世に起こる出来事に関わるでしょう。勝手な考えを相手に正論として押し付けた挙句、相手が持っているものがよく見えるからって、妬んだり悪意を持つ理由にもできないでしょう。

人によっては、そうか、子供いなくてもいいんだ、結婚できなくてもいいんだと心が軽くなるかもしれません。でも私は、相手を思いやる意図を持って言わなかった言葉には、ただ傷付けるだけの発言にしか思えてなりません。

そうして、一部の人から心無い言葉を浴びせられ、私は人にわかってもらいたいという承認欲求がなくなっていきました。わかってもらっても、自分が喜ぶだけです。それは一瞬を気分よく過ごせるだけで、その後はまた下降します。友達に会っても、お互いを喜ばせるような言葉をたくさん掛け合うでしょう。でもグルたちの教えによれば、友達はエゴを強める存在です。エゴを強めれば強めるほど、けっきょく苦しみます。それから、人はだんだん孤独になっていくもののようですから、いずれ寂しいという気持ちなどなしに、一人ただ在るだけになります。人間は人と同じようになろうとして、他人より良い生活を送ることだけ考えているから、幸せを追い求め続けるそうです。なんで人間だけが同じになろうとするのかしらと、芸能人の美輪明宏さんも似たようなことを言っていました。

私が仕事がなくて苦しむのは、周りの人の目が気になるためです。世の中働いている人の方が多く見えるのに、どうして私は働けないのかと思います。それで働く気がない食って寝るだけのやつだという悪意を人から感じることもありますが、私自身はむしろ働きたくて仕方ないのに、手に入らないから苦しみます。だからもう、働いている誰かのようになりたいとか、仕事が欲しいとか、そういう欲求を全部無くしたいです。全部なくしたいという、そういう欲求があります。人に何か言われて傷つくのもやめたいです。記憶に残って、体のバランスが崩れた時に頭にその時のことが蘇って、ずっとイライラが止まらなくなったりすることもあるので、そもそも私が悪意すらなんとも思わないようになれたらと思います。

今ずっと私のそばにいられるのは、お互いに依存心のない人です。一人で楽しむことができて、あなたがいなければいけないとか、あなたがこうしないから私が不幸せなんだとか、そんな風に言うことがたまにあったとしても、心の根っこでは一人でいられる人たちです。お互いを思いやって、愛し合って、一緒にも別行動もできます。

 

今の私は、死への価値観も変わってきているかもしれません。何にもないとき、いずれ人が死ぬと言うことが怖くないんです。自分はただ生きているんだという感覚だけがあります。ただ在るという感じです。

 

色々無くなって、そのために自分が誇れるものとか、自分にできることは何もないと感じることが増えました。いつになっても仕事にも就けないですし、ただ周りの人たちに支えられながらしか、生活を送れません。生活力は自分が生きる分にはあるけれど、何かをお金に変える力や能力は私にはありません。ますます、周りの人はしっかり働いて自立して、能力もあって、仕事を任せられて、すごいなって思います。去年あたりから、もうあまりにお金を稼げない自分がなんの価値も持たないと思えることが嫌になって、仕事をしていない自分でも受け入れられるように、考えを改めようと努力しています。早く死ねばいいけれど、別に死ぬ必要もないし、働かないことで誰かを傷つけたりするわけでもなく、まだ生きているうちは楽しもうと、いつも気持ちを持ち直しています。そもそも生きていることに意味なんてなくて、グルの言葉によれば、ただ生まれたからいま生きてるだけです。目的とか使命とか、ないです。生きるのに必要なこともないです。

 

私から人に対しては、働いていない人がいてもなんとも思わないのです。子供の頃からずっと引きこもりで年金をもらう歳になってる人なんかを見ても、非難するような気持ちは全く浮かばない。それなのに、自分のこととなると働ける体があってメンタルも普通なのに、何もはたらかなくて怠惰にも程があるとか、無能すぎると思う時があります。でも、そんなふうに悲観的になっても、仕事がないことを思い詰めても、仕事はありません。探してもないし、仕事くださいと言ってももらえないし、暇している私にも頼まれることはないので、今は何もないのです。

 

最近何もなさすぎて気づいたのが、いま幸せだと感じる瞬間が、洗濯物を外に干せるときです。これはちょっと自分でびっくりです。客観的に見て些細すぎることなので。

私の住んでいる地域は日照時間とか時間帯が日本と異なるので、乾燥機を使うことが多いです。しかし今は洗濯物を外に干せます。乾燥機と違ってタオルとかパリパリに固くなるのですが、それでも心なしか干したものから太陽エネルギーみたいなものを感じます。私は何もないけれど、太陽はそこにあるなって。電気もなく乾燥機も持たなくてもいいんだって、気持ちよさを感じます。

 

 

このブログ上で、今回は全然インドに関係ないことを書いているようですが、今の私がこんな風に綴るのは、インドのグルたち、インドで悟りを開いた仏陀、インドで出会った人々や食べ物による経験が根底にあってこそです。

何も目的を持つ必要がなく、学ぶ必要もなく、誰かに求められたり好かれたりする必要もなく、ただ全ての現象をそのまま受け入れること、ただ起こっていることを見ること、自分の幸せを人に委ねなくていいということ

体のバランスが崩れると、苦しい気持ちでいっぱいになりますが、穏やかでいられる時は、何の感情もありません。なんの疑問もなく、欲求もなく、ただ空っぽの自分がいるだけで楽です。