クルフィーの色~インド.料理.旅など~

ひたすらインドとヒンディー語について綴られるブログです

2023 夏のインド人との遭遇、できごと、そしてカルマなど

今日の記事はただ私の心の中のごく一部を書いています。非常に長いことを先にお伝えしておきます。

2023年の夏、当初は何も予定がありませんでした。それがかえってスケジュールに余裕を持たせたため、夏が始まるとすぐに、イベントでなかなか、ぎっしり埋まりました。ここからは、そんな私のひと夏について、そして少し理解が深まった事柄についてです。

この夏は国内旅行をしました。

ほぼ初めての国内旅行です。出張で国内の都市に出かけたことはありますが、その時はただ栄えている街を歩いて安いドミトリーに泊まり、外食を一人でしただけという感じでした。

去年までの夏を思い返すと、海外に住んでいる私は、長期の休みがあると日本に一時帰国することが最も多かったです。しかし昨今は原油が高騰し、コロナがいちおう終わったとはいえ、単純にチケットが高すぎて簡単に帰国しようとはなりません。2022年の夏は日本に帰りましたが、トラブルが多すぎて、肉体的および精神的に被害を被りました。日本に帰りたいかというと、もう帰りたくないと思うほど大変だったので、今年は帰れなくなってホッとしました。

今回の旅行では、とある大きな島に滞在しました。日本でいう北海道みたいな感じの場所です。牧畜や農業が栄えていて、自然が豊かな場所でした。毎日牛農家さんの無人直売所に行き、新鮮な味の濃い牛乳を牛乳瓶に詰めて持って帰り、飲み終わったら瓶を洗って補充しに行っていました。牧場の牛乳は最高です。

2023年の夏、この国では酷暑によるハエの大繁殖が起きたのですが、滞在した島には牧畜がたくさんいるのどかな環境だったこともあり、毎日恐ろしくハエの大群が襲ってきました。外にいる時はそこまで気にならないのですが、宿泊先のキッチンには大量のハエがやってきて、ある時に数えたら20匹のハエが食卓にいました。ハエが来るたびに、なんかここインドみたいだなぁとか、考えていたところ、同じ宿泊先にインド人一家がやってきました。一家全員というのか、サリーを着たその家のおばあちゃん、お父さんお母さん、いとこ家族もいたかもしれません。子供は少なくとも5人いるという大家族でした。お母さんは朝からインド流にきゅうりとパプリカのスライスを大量に用意し、トーストにナムキーン(インドのせんべい、あられミックス)、そしてチャイがすぐに用意できないためかコーヒーをいれていました。おばあちゃんとその息子さんは方言で話し、息子さん世代はヒンディー語を話すのですが、子供たちとは英語で話をしていました。インドは国内だけでも多言語の国ですね。

この島以外にも別で、自然豊かな場所での国内旅行をしたのですが、そこにも必ずインドの人がいました。近隣の遊園地などでも、もれなくインドの人がいました。遊園地には日本の人も多かったですね。

些細な出来事から大きなことまで

毎日を積み重ね、私の内側で変化し続けているのを感じます。ひきこもごも、なんて普段の会話で一度も使ったことないけれど、たぶんそんな感じです。

私は日本を出て10年は経ちました。今では日本に帰国するたびに、自分の日本人らしくない姿が浮き彫りになります。元から日本含む各国の知人には、いい意味で日本人らしくないと言われてきました。2022年の夏に日本に帰ったときは、あまりに私が日本に馴染めないので、早く外国の自宅に帰りたくて仕方なかった。別に今住んでいるこの国が特別好きとか、そういうわけでもないのですが、それでも私の気性にはぴったり合っているようです。インドですら、短期旅行ならいいのですが、居住できるほど私には合いません。

この夏の島での滞在生活は、本当に素晴らしいものでした。海に囲まれているので、海産物をたくさん食べました。その土地の郷土料理も食べることができました。

農家の直売所で買った安くて新鮮な野菜や卵を使って、自宅から持っていった限られた調味料を合わせて自炊もいっぱいしました。ユースホテルの共用キッチンだったので、全く切れないボロボロの包丁や、全然温まらないコンロとか、自宅とは設備が雲泥の差ではあったものの、持ちうる調理スキルでおいしく作れました。

森に入って自生している果物を食べたり、野生の動物も見れました。広大な土地があったので、隙あらば藻や草ががいっぱいの乾いた地面に裸足になり、寝転んだりもしていました。人が多い街だと全て犬の散歩コースだったり、自然の中で綺麗な地面を見つけるのが大変ですが、この島の豊かな自然の中では簡単に見つけることができました。

その島ではあちこちに蜂農家があって、農家さんの家先には必ず無人の蜂蜜販売がありました。私はその土地のものを食べるなら蜂蜜が適格だと思っているので、この夏は蜂蜜の瓶を4つも手に入れてしまいました。本当はもっと買いたかった。島では一つの蜂農家で3種類の蜂蜜とか売っていたりして、それがすぎたら300メートル先にまた別の蜂農家の蜂蜜が売ってたり、とても買い切れませんでした。見た目も食感も、各農家で全然違ったので。それぞれ何が違うのか食べて試したかったです。

農家の直売所で自家製サラミも買いました。こんなサラミ食べたことない、おいしいものでした。肉もチーズも、海鮮もおいしい。

島の海岸では自然にできた特徴ある岩肌なんかがあって、登ったり岩と岩を跳んで渡ったり、なんか子供みたいに走り出したくなるような環境がいっぱいでした。

旅行先についてはたくさん調べて準備しましたが、毎日何をするかはノープランでした。旅行前に想像したようなことは何も起こらず、想像していなかった日々が毎日続きました。想像をはるかに超えて大変なこと、楽しいこと、心に感じることが旅の間ずっと起きました。

旅行は本当にいいものでした。とはいえ、自宅の素晴らしさを改めて実感しています。ユースホテルの部屋は湿気が多すぎてカビ臭く、それが元で毎日喉が痛かったりしました。部屋の中もハエがいっぱい。知らない人が入れ替わりチェックインとチェックアウトを繰り返すので、私生活で他人と距離を非常に置く私にとっては負担でした。

最近わかるようになってきた事柄

近頃は、自分に合わないことをするとき、カルマのことが頭をよぎります。

私がよく動画で見るインドのサドゥグルは、カルマはシャボン玉のようなもので、それが割れると空間と一体になる、カルマを緩めるには自分が嫌いなことをすると良いと言っていました。嫌いなものを食べるとか。あとは、84歳まで長生きすることです。月の影響を84歳まで受けると、どうしてもカルマが緩くなるので、輪廻転生が終わる、つまり死んだ時に生まれ変わる可能性が非常に低くなると言っていました。

「生まれ変わったらこういうことをしたい」みたいなのは、もう私は思いません。未来について想像や妄想をしたり、過去を振り返ったりはするのですが、それでも今をただ過ごすことのほうが配分的に多くなりつつあります。自分の好みでないことをすれば、確かに「自分」という感覚を薄めることに役立つのだと思います。生まれ持ったものと培ってきた価値観に反することをするのですから。

病死や事故、自殺で亡くなるとカルマが強まるので、すぐに生まれ変わりやすいそうです。

インド哲学に触れるようになってから、はや数年過ぎました。

インドの心理についての知識を知るようになってから、5年は経った気がします。これまでわからなかったことに関して、点と点が繋がるようなことが日々の中であります。先にも述べたような、心の内側での変化がずっと続いています。それは気づいていてもいなくても、きっと絶えず変化しているのでしょうが、私の性格や振る舞いそのものが、成熟していく感覚がずっとあります。同時に、いつまで経っても子供で、いつになったら大人になれた感覚がするのだろうと思っています。悟りの境地というものに気づけたときに、きっと。その直前までたぶん、私はまだまだだなぁと思いながら過ごすのではないかと思います。

いくら知識や語学を詰め込んでも、それらに限りがないということを、三十半ばの現在でも感じます。叡智というものを超えることはないでしょう。

インド哲学によって、物事には二面性などなく、私や他の人の価値観で作り出しているだけだと気づきつつあります。何か、小さなことでもわかる感覚が増えている気がします。まぁ、気のせいかもしれません。

ユースホテルでもはっきり感じたこと

私は一人でいるのが一番落ち着きます。自分で知っています。幼い頃も一人でいるのが好きでした。小学生までは放課後に友達と遊ぶのは面倒だけれど、母親に言われて仕方なく誰かを遊びに誘っていたのを覚えています。

中学からは友達と放課後にずっと喋って過ごすようになりました。その頃から程よく周りの人と溶け込むのを頑張っていたので、今思えばおそらくそれが原因でそうしていました。友達に話を聞いてもらって、自己肯定感を高めていたのではないでしょうか。もう周りの人に「いいね」といくら言われても、意味がないようです。自分の好みや興味を理解してもらえなくても、逆に私がどんなに大好きな相手でも全て共感したりできません。誰かに認められることに意味がない。社会的地位や、持ち物や、経験、見た目が物質的な私を形成していて、そんな上辺だけのものを肯定されても否定されても、ただそれだけのことだと、気にしなくていいと思えるようになりました。

今なら国語の時間に読んだ「みんな違ってみんな良い」というフレーズも、本当に理解できます。私は他の人を100%理解することはできませんし、他人からもわかりません。どんなに近しい恋人でもわからないでしょう。「これがよくてあれは駄目だ」という考えもせず、誰か別の人になる必要はないのだと、思えるようになってきました。

自分以外のもので自己を認識している

別のグルであるラマナマハルシも言うように、私という存在について気づくことが、今ここで見えずにいる真実、真我に辿り着く道のようです。サドゥグルは、人は外側のもので自己認識をし(アイデンティティをもっている)、それらは私ではない。体ですら私の体であり、私自身ではない、心も私ではないと言っていました。

私の認識が正しければ、サドゥグルは魂というものも存在しないと言っていました。バガヴァッドギーターでクリシュナは、私は全てに偏在すると言っていました。「何か」見えるものではないし、目に見えない心ですら、脳という体の器官がもたらしている記憶とか考えであって、私ではないし、魂というものでもない。カルマというシャボン玉の膜のようなものが形作っているので、割れたら全てと一体化する、つまりどこにでも偏在しているということなのかなと考えています。

馬鹿なことはしない

サドゥグルが言っていた「タバコを吸うのは良いとか悪いとかではなく、馬鹿なことでしょ」っていう言葉が最近しっくりきます。「何かが綺麗なのではなくて、綺麗だと思える心が素晴らしい」のだと。他の人と同じ感覚を持つとか、大多数に入るとか、本当にそんなことしなくていいみたいです。「自分の人生の使命を皆知りたがるけど、そんなものは存在しない。使命がないから自由なのだ」ということ、「他の人から見て馬鹿げていていても、気にせず自分のやることに本気で取り組む」こと、人のことも自分のことも、放っておけるようになります。邪魔をする回数が減ります。

お酒飲まないのか?とよくサドゥグルは聞かれていますが、「私はお酒を飲まなくても酔っぱらってるから」「物事で左右されないから(酒やタバコで喜びや幸せは左右されない。自ら幸せだ。)」という話も、たまに思い出します。「誰かが幸せだ、かわいそうだ」と判断するのはその人の考えでしかない。「ポジティブシンキングではなく、ものごとを善悪の判断なくあるがままに見る」ということが、非常に心を軽くしてくれます。サドゥグルも、ラマナマハルシも、心は勝手に考えるものだから、深く考えなくていいと言っていました。ほっときなさい、彷徨わせておきなさいと。なんだか、自分に悲しいことや辛いことがあっても、放っておけます。悲しんでる自分は駄目だとか、自分かわいそう(?)とか、善悪の考えもなく、そのままにできるので。

頼まれるまではそっとしておく

前にとある言葉をヒンディー語で知らなかったので「家に帰ったら調べよう」と目の前にいた知人に言った際、「いや、調べなくていい」としつこく止められたことがあります。「私が調べたいから調べるんだ」といっても、同じ調子で止められました。「いや、知らなくていいから」って。今思い出しても、自分が興味なくて無駄だと思っていることを、独断と偏見で止めさせるのはよくないなぁと思います。よくないなぁと思うのは私の考えで、たぶん人にも自分に対しても、やらなくていいことなんでしょう。何かに対する情熱を邪魔したりするようなことは。

私は元から変わっている自覚があります。大体の人とは合いません。一緒にいて心地いい人のみが自然と残るうち、友人の数は減って行きました。SNSも必要ありません。基本的にお互いに放っておいても平気な人だけになります。

学生の頃は、いろんな人と知り合って多くの価値観に触れたいと思っていました。今は全く思いません。みんな、ただ私自身が固めてきた価値観とは違うというだけです。

親と子供

周りから、こうしなさい、ああしなさいと言われてきました。人なみに?

けれど、体に危害を加えたりするような馬鹿なこと以外は放っておいていいみたいです。他人も、自分も。サドゥグルは育児に関しては、自分で自分が好きだと思えるような姿を見せなさいと、確か言っていました。それは子供に対してだけではなく、大人の人に対してもでしょうか。親である本人が好きなことをやらせて嫌いなことはやめさせるのではなく、子供が最大限に成長できるように、水を差すなということですね。サポートに徹することだそうです。その子を自分が思う最高な人に育てる、捻じ曲げるのではなく、まず自分が自分でいいと思えるようにしなさいって。自分ができないことを子供に押し付けたり、失敗してきたことを思い描いた通りになるように子供にさせないのだと。(成功とか失敗とかいう考えも持たなくていいので。)その子がその子であれるように。自分が自分であるように。

結果は気にせずカルマを行う

インドの古典バガヴァッドギーターで、クリシュナも言っていましたが、結果は気にせず行動すべしとのことです。それから、サドゥグルが言うように、結果を予想するのはどうなるか誰にもわからない未来を、それまでの過去の出来事から妄想しているにすぎません。そして成功した失敗したという結果も、自分が思うようにいった、或いはいかなかっただけ。成功したから良いわけでも、失敗したから駄目なわけでもない。思い通りに言ったから良いわけでも、悪いわけでもない。何かをやる前からそれに意義があるとかないとか決めつける必要はない。そもそも意義がないと思われるくだらないこともやっていい。それはただ行動、カルマをしているだけ、とういことだそうです。

夏の旅行で絶対に行きたい、やりたいと思っていたことがありました。非常に期待して、時間をかけて行きました。しかし、想像していたようにはいかず、何もできませんでした。実際に私自身が毎日、想像したり怖いことを考えたりしても、その通りに現実になったことは、おそらく一度もありませんでした。予知能力もないので。

ずっと思い通りにうまくいかなければ悪いわけではありませんし、周りから成功していると羨ましがられても、その羨望の眼差しで喜ぶことに本当の幸せはない。何が手に入っても何かしら問題は起こる。こうでなければいけない、こうしなければいけないということもない。誰かの望む姿に私がなって、その人の欲望を満たさなくてもいい。

そういえば、この国に来る前、一部の人には随分止められました。私は、その人たちの思い通りに日本に留まらなくてよかったです。その人たちを満たすことに、意味なんてありませんでした。誰かが喜ぶことで私の幸せが左右されるわけでもないということでした。

日本を出てからも人と接するたびに色々ありますが、この調子で人生過ごします。