クルフィーの色~インド.料理.旅など~

ひたすらインドとヒンディー語について綴られるブログです

雑記、自分の欲求

今日の記事のテーマは特になく、しいて言えば雑記です。


コロナ渦だからこそ思うような事が、現在の私の中にあります。
海外に暮らしている私は日本に帰りたいなと思うことがしばしばあるのですが、今は検査の証明や飛行機のチケットを取ること、待機期間など、これまでになかったような手続きが増えていて、海外に行くのは大変なようです。コロナのために、ある程度の渡航にかかる資金と時間の余裕が必要なためですね。
しかし、日本に全く帰らないというのは私の中であり得ない選択で、なんとしてでも機会を狙って帰ろうと考えています。
母国に帰る計画を立てるだけでこの有様なので、インドに行くことは重大ではなくなっています。
インド哲学に本格的に踏み入れてから一年と少しばかり経ちました。気づいたら様々な欲求が減っていて、物質的にも内面的にも、自分が持っているものが少なくなっています。インドに絶対に行くという気持ちもその中の一つでした。その気持ちは今、優先される事柄の枠外にまでなりました。行かなくていいと感じるのです。いつの間にか、インドに絶対に行きたいという欲求がなくなりました。
ただ私は完全に自分という人間を捨てた訳ではないので、日本には行きたいという欲求というか、衝動に駆られることがあります。大学の恩師と会ってインド談義(むしろオタ話)に花を咲かせたいなとか、家族、友人に会いに行きたいとか、そういう気持ちはあります。
こういった欲求意外にも、なにか欲した時は素直に従って行動しています。そして、無理にやりたいことや欲しいものを探して時間を埋めることに意義はないのだろうと感じています。何も心に浮かばない時、欲しいもの、やりたいことがなく、感情の起伏が感じられないような時は、それで自然なのだと受け容れています。


私が何か思ったり、動いたりすることは全てカルマなのだとインド哲学的には思うのですが、他人に対しても同じように考えるようになりました。
解脱する人が最終的に無欲になるとしても、私は今すぐに無欲になる努力をしようとかは思いません。今欲求を持っている私は、ただ今の時点でそういう私が在るだけなのだと。いつか覚醒して輪廻転成が終わる人生を歩む時には、そうなるのだからと。
何か変わったことをする人だったり、周囲に悪影響を与えていたりするように私から見えるような人に対して、その人を変えたいと思う欲求が芽生えたとして、それも無理だとわかるようになっています。その人の感じ方、やり方、振る舞い全てがカルマなんだろうなとか、本人が変わるべきことだったり、必要な時に変化するのだろうとか、そもそも私がそんなことを考えること自体に意味がないとか、それはもう色んな思考をわかせます。結局のところ全部私が思うことに真理を知った人からすればなんの意味もない、無知な存在がすることなんだろうなという結論にたどり着いて、どうでもよくなったりというループを繰り返したりするのです。


私が好きな邦楽の一曲があるのですが、皆さん米津玄師さんのカーマシティはご存知でしょうか。
この曲は初めての視聴で、一部分だけ聞いたら一目惚れ(曲なので「一目」ではないですが)しました。これは曲全体が素晴らしいに決まっているという確信を得て。
ダウンロードしたらやはり最高でした。曲調も、歌声も、歌詞も。これ一曲だけで無限に聞けます。めっちゃエモい。よく歌詞の中に輪廻とか修羅とかでてくるのはどういった考えの持ち主だからなのか、気になります。
この曲があのアルバムの中で一番好きという方に出会ったら嬉しいです。