クルフィーの色~インド.料理.旅など~

ひたすらインドとヒンディー語について綴られるブログです

今の自分の気持ちを整理するための長文

ラマナマハルシのようなグル、または聖典の教えを学んでいると、なにかに執着することがよくないという言葉が出てきます。

私はここ一年で、どんどん自分の持ち物を手放して、持っているものでさえいつでも手放せる心の準備が整いつつあるのですが

ふと、ヒンディー語の辞書が目に留まりました。昨日の昼頃、私は異常な眠気に襲われて、まるで何かの術にかけられたかのように5時間ほど眠り続けたのですが、その時見た夢で「これは私にとって大切なものだ!」と、このヒンディー語の辞書を周りの人から必死に守ろうとしている場面があったのです。

私の深層心理が出たのでしょうか。確かにこのヒンディー語の辞書は、手放す気も、手放せる心の準備もありませんでした。

 

ラマナマハルシの教えの一つに「あなたはあれやこれや『私の』所有物を放棄する。もしその代わりに『私』と『私のもの』という想念を放棄すれば、すべてが一太刀で放棄される。所有の根本原因が絶たれたからである。」という言葉があります。

私は全てのものを捨て去って生活をすることはないですが、このヒンディー語の辞書に対する私の執着も、今日をもって薄くなりつつあります。辞書の存在に気づくことで、なんとなく私との関係性みたいなものが薄れた気がします。

 

これがなくては駄目だとか、この人がいなければ駄目だとか、そういう依存や執着した考えが自分を縛っているのだということに、どんどん気づくようになっています。

これがなくても生きていけるとか、自分という存在がただ在るだけでいい、周りの人も物も、自由にしていればいいという心持ちでいる方が、楽だなと感じるようになりました。

自分はこうでなくてはならないとか、周りはこうであるべきだとか、そういう考えも何も起こらない時、最近とても楽です。

逆にそういった考えばかりが頭を占める時、ただ気分が重いです。自分で自分を苦しめているなと思います。

 

私は先月をもって続けていた仕事を辞め、現在は無職です。だから仕事について、お金についてますます考える時間が増えています。でも、まだ新しい仕事には出会っていません。気持ちの起伏があり、気分が下がっているときは明らかに仕事がない現状についてマイナスに見ています。

けれども、今このブログを書いているのは、少し心が落ち着いてきたためです。もうちょっとポジティブに自分を見ることができます。

ネガティブな時は、どんなに聖典やグルが「定まっていない仕事はできない」と言っても、それでも私は仕事して稼ぎたいんだ!という気分になりますが、気持ちが落ち着いている時は、仕事をしたいという欲求が収まって、非常に楽です。どれほど私が日頃、仕事をしたいという欲望を抱えているかがわかります。

前の仕事にどんなに意義を感じられなくても、お金をもらえて働けるなら続ければよかったのかなと思うこともあるのですが、辞めてよかったのだとすぐ思い直しています。実際、自分がやり尽くして、辞めようと思ったわけですし。

 

 

「起こるべく定められていることは、起こるだろう。あなたはその仕事をするように強いられている自分を見出すのだ。それゆえ、高次の力に委ねなさい。思いのままに放棄したり、続けたりすることはできないのである。」

「定められた仕事を終えた時、それ以上する必要のない仕事は続けることができないのです。」

「あなたはあなたに定められた役割を果たさなければならないのです。」

 

こう言った言葉が頭の中を反復します。もしこれらの言葉がなかったとしても、私の現状は変わりません。だから、これらの教えを私が信じたとしても、結果は同じなんでしょう。

 

私が無職になって、周囲で何か変わったかというと、良い意味で何も変わりないということに気づきました。

変わったかもしれないのは、私の心の中でだけなのです。こうして働くこと、稼ぐことに執着しているうちは。

 

仕事がない私にはお金がないのかというと、そういうことでもないのです。それなのに、お金を貯めておきたいとか、ただ家でのんびりしているだけの毎日は勿体無いとか、そんな考えが自分を仕事へ駆り立てて、苦しめているようです。

 

だけど、そんな自分を苦しめるような思いも、毎日少しずつ楽にしていけるように、人生で学んだことを振り返っています。

 

カルマとか、運命とかは、あると仮定して過ごしてみると、かえって楽なことが増えました。

最近は面倒臭いお誘いとか、お願い事とか、カルマをこなしていくような気持ちでいます。やらないという選択もありますが、どんな結果が待っていようとも、変に未来を想像せずにやってみようという励ましになっています。

 

人間には未来を想像する力があるから苦しむのだと、確かサドゥグルは言っていました。

最近の出来事で、大切な人が緊急入院することになったことがありました。その時私はどうしようもなく不安になったのですが、それがきっかけとなり、この言葉の意味がもう少し理解できた気がします。

私はその人が非常に辛い思いをするんじゃないか、それが私をさらに苦しませるんじゃないか、自分にとって不幸な未来を想像して苦しんだのです。

そして、そんな未来を想像することは、現在起きてもいないことを妄想しているだけに過ぎないとわかりました。そんな未来を想像することで、既に過去にそれが現実化したかのような状態を作り、現在の自分を苦しめていたのです。でも、実際には未来にも、過去にも、そんな出来事はあり得ませんでした。ただの悪い妄想ですから。

「現在を見なさい」というグルの教えが、そのときわかりました。

入院した人は当初の医師の説明よりも病状が軽くすみ、無事に退院しました。

 

 

「体に執着するから失うときに苦しむ」ということ、この出来事を通してよく考えました。目の前にその人の体がなくても、私との繋がりがなくても、真実の上では消滅することがない。離れていても、本当は変わらず一緒にいるということ。