クルフィーの色~インド.料理.旅など~

ひたすらインドとヒンディー語について綴られるブログです

前世でハゲ頭のインド人でした。

先日日本に一時帰国した際、私はとあるカウンセラーの元で前世療法を受けてみました。
なぜかというと、ただ自分のことをもっと知りたいという欲求からです。
何がきっかけだったのか、私は昨年中に前世療法というセラピーがあることを知りました。
人間の潜在意識には前世の記憶があり、それが今生にも影響していると聞いたのです。
自己啓発の本を読み漁って行く過程で引き寄せの法則とか、スピリチュアル系の話にいつの間にか踏み込んでいて、何気に詳しくなりつつあります。以前の記事でもインド人女性の臨死体験に関する本を読んだと書きましたが、その女性は臨死体験の間に自身の前世を見たと言っていました。(アニータ・ムアジャーニ、喜びから人生を生きる! ― 臨死体験が教えてくれたこと)
私は既にその本で前世についての箇所を読んだ時から、自分の前世もあるのだろうかと興味を持っていました。ただ、その時はそれを自分自身で見られるとは知らなかったのです。
私は怖がりなので、できる限り霊とかあの世とか、都合よく捉えようとこれまで努力してきました。私は霊感もないしお化けに出会わないぞ!とか(…。)けれども、スピリチュアル系の情報を得るにつれて、そういった事象への恐れは不要なものだと気付き、まだまだ怖がりながらも、以前よりは受け入れられるようになってきました。そうすると、もう前世は全ての人に絶対にあるものだと思うようになったのです。
ならば、前世療法自体にはもう何の疑いもありませんでした。そういったセラピーが存在するのは不思議ではないし、怪しいとか思いませんでした。ただし、前世療法はある程度の費用がかかるものなので、カウンセラー(セラピストでしょうか?)の力量だけは私にとって重要でした。もし前世療法を受けても何も得るものが無かったら元も子もないので、絶対に前世を見せてくれる人の元に行きたかったのです。ネットで自分が行ける範囲のカウンセラーを探し、その中でも実績が見込める人に絞り込みました。


前世療法はカウンセラーの自宅マンションで行われました。玄関開けて初めてカウンセラーの方とお会いしたあたりからドキドキ、緊張しているのを感じました。
まずは前世療法に関するカウンセリングから入り、説明が始まったのですが、緊張もあり頭に内容が入っているような無いような感じでした。(私も自分のサロンで初めてのお客様をお迎えすることが多々ありますが、自分が逆の立場になって初めてこの感覚がわかります。)
ただ、私を見てくださったカウンセラーは女性で、さらにとても気さくな方でしたので、徐々にリラックスしていくのもわかりました。
説明では、まず前世療法とはどういったものであるか、そして私が受けることの内容について話を聞きました。前世療法を受ける人はカウンセラーによって暗示をかけられ、起きていながらにして夢を見続けているような状態に入るとのことです。そして、普段は隠れている人間の潜在意識の蓋を開けっぱなしにするので、前世の記憶を引き出せるということでした。
しかも途中で休憩を挟んでも続きが観ることができ、さらにそうした方がもっと前世を見やすくなるそうです。寝ている時に夢を見るのとはまた違うんですね。
潜在意識とはその人の持つ本質であり、前世はそれを映す鏡のようなものだそうです。なので、自分の前世を見るということは、結局は鏡の中にいる今の自分自身を見ているのと同じということになります。けして、別の誰かの人生を見るということにはならないのです。


まずは本番に入る前に練習から始まりました。目を閉じカウンセラーの言葉に耳を傾けながら、頭に浮かぶものを伝えていくというものです。例えば一輪の花を想像して、どのくらいの背丈の花か、色や形、どんな茎や葉を持つのかなど詳しく伝えていきます。たくさん伝えていく方がビジョンとして前世も受け取りやすいということでした。
ただし前世は見えるだけに限らず、分かるタイプの人もいるそうです。映像や静止画のようにまぶたの裏に映らないけれども、なぜか前世の様子がわかるそうです。匂いや感情などがわかることもあるということでした。見える人は3人に2人、残りの1人は見えないけれどもわかるタイプの人だそうです。


リクライニングチェアに横になり、目を閉じて本番が始まりました。カウンセラーに誘導されながら催眠状態に入ります。
初めは何も見えないな〜と思っていたのですが、なにやら景色が浮かんできました。私はどこかの崖にある洞穴にいて、開けた岩の切れ目から反対側の崖を見ていました。自分は若い男性で、日本人ではないアジア人っぽい感じでした。特に衣服を身につけている感じはありませんでした。洞穴の岩肌がひんやりしていて、ちょっと水で地面が濡れています。
そこから場面が変わって、森の中に出ました。さっき崖から下を見下ろした時にあった森と同じでした。そこには洞窟が見えて、入り口の前に女の人が料理をしているのが見えました。その中に入ると岩壁に棚があって、青い表紙の本が見えました。中を見ると一枚の写真がありました。どこか暑い国(インドかスリランカあたり)のような家並みの前に、1人の男性が銃を持って立っています。
カウンセラーの誘導でその男性の人生を見る場面に入りました。
もうそこからは見慣れた感覚のある景色でした。私がその男性に入り込み、歩いているところが映し出されたのですが、まずは足元から見え始めました。デコボコの石畳で、路面は濡れていて泥水で汚い印象、まさにインドの古い道でした。私はインドの街並みを歩いていました。さほど広くない道の両脇には店が立ち並んでいます。インドにいると伝えました。青い民族衣装を着たおばあさんが居ると。「サリー着てますか?」と問われて、そうですねと返事をする私。そこだけが景色の中で色鮮やかに真っ青で、サリーを着たおばあさんが歩いていました。ふと左脇に少年が見え、静止画ではあるけれども私の横を走り去って行くのがわかりました。
自分は警察官なのか、パトロールしている感じで街の中を歩いていました。それでも前世の中の自分は暇だから歩いていたのが感覚でわかり、だから暇つぶしにパコーラーを買いに行こうかと考えてました。
同僚の姿もふっと浮かび、彼らはもっと町の中心みたいなところにいて、若い男性が2人見えました。自分はというと中年でヒゲが生えてて、モスグリーン系の制服着てました。
そして歩いていた街並みが開けて、左側に白い車が通っていました。窓ガラスがないオンボロ車で、インドの路面をたくさん走って汚い車体でした。
それから荷車が走ってて、砂が入った土田袋みたいな大きな袋が3つくらい積んでありました。

その次の前世に移りました。自分はインド人のおじいさんで、住まいからしてインドの中流家庭くらいの暮らしに見えました。インド的には上流とも言えたのかもしれません。
その前世の私は家で妻と二人暮らしでした。自分がおじいさんなので、妻はおばあさん。その日は息子夫婦の子供が来ていて、まだ小さい赤ちゃんが白いおくるみに包まれて、私に抱っこされているところでした。息子夫婦はどこか別の場所に暮らしていて、たまたま孫を預けていたような感じがしました。
家のリビングに立派なガラスの扉が付いている本棚があって、中には本がいっぱいでした。一冊手に取ると白い表紙で、中はヒンディー語でした。写真が見えてよく覗いたのですが、野原でウッタルプラデーシュに近いエリアに見えました。前世の自分にとって特に思い入れのない場所です。
本棚の本も、いろいろな分野の本があるけれど自分が興味を持っているものはなく、愛着がなかったです。興味を持てるものを探すために本をたくさん読んでいたようですが、何を仕事にして生活していたのか見えませんでした。

またインド人の前世を見ていて、自分はハゲ頭でした。前世の中では気温が暑いのがわかりました。しかも日差しで、頭をジリジリ焦されて熱いのです。白い服を着ていました。やることがなくて暇なので、散歩は好きではないけれども街中を歩いていました。一番最初のインド人のおじさんに続き、また暇で歩いていたのです。

カウンセラーの誘導で、私にとって一番重要な前世の記憶へ飛びました。また一番最初の前世に戻っていて、洞窟の中に1人でいました。重要そうな気がしなかったので、おや?と思ったのですが、続けました。
手に何か持っていますかと尋ねられて、ふと手に集中すると、左手に石ころを持っていました。それは何かと問われると、特に意味はないただの石のよう。誰もおらず一人きり、暇を持て余して石で遊んでいるようでした。
少し場面が移って、自分は夜の森で1人で焚き火をしていました。特に動物の気配はありません。昼間は右手にもりを持っているのが見え、魚をとっていたのがわかりました。それから木の実を食べていたようなのですが、動物は獲って食べていたという気がしませんでした。


さらにその前世で自分が死ぬ場面に移ると、白髪で長い毛を上に束ねているイメージとおろしているイメージの両方が見えました。洞窟に横たわっていたので、老衰のようでした。
それから白い石みたいな、逆三角形の形のものをジャラジャラつけたネックレスしてて、赤いラインが逆三角の上から三分の一くらいの位置に入っていました。


最後に前世の自分から私へのメッセージを受け取れたのですが、「自分の足で歩く」というようなメッセージを受け取ったような気がしました。一体どういう意味かとカウンセラーさんに問われましたが、これは比喩的な意味で、自分で前に進んで行きなさい、人生を歩みなさいというような感じがしました。
前世の人を抱きしめるイメージをすると、なんか落ち着いている感じで、けっこうがっしりした体つきの前世の人でした。森で生活をしていたので筋肉はけっこうついていたのかもしれないね、とカウンセラーに言われて納得しました。


カウンセラーに振り返りで現世の自分から見て、前世の自分はどんな風に移ったかと聞かれました。私が思ったのは、自分はもっと起伏のある人生でもよかったのに、森を抜けてどこかに行ったら、もしかしたら誰かに出会って、そこから人生のドラマが始まったかもしれないということでした。前世療法の途中で「森を抜けようとは思わないのか」とカウンセラーさんに尋ねられていたのですが、前世の自分は全くそんなこと思っていなかったのです。暇なのに、誰もいないのに、特に不満や孤独を感じることもなく、むしろ納得のいく生活を送れていたようです。
前世療法を受けて、私が見たのは全て男性の前世で、総じて暇を感じていました。それから、インドがいっぱい出て来ました。私の前世でインドが出てくるのはけして不思議なことではありませんんが、インドでの前世を見るつもりでいたわけでもありません。
初めの説明で聞いた通り、前世は自分を写す鏡であり、まさにその通りだと私は実感しました。今の自分も、前世の自分と共通していると思い当たる節がいくつかありました。暇だから食べ物を探しに行くとか、暇だしどこかに行こうかと考えるも、やはり無駄足に終わりそうだからと考え直したりすることが多いです。
何かやることや興味を持てることを探しているのも、今の私の人生に当てはまっています。
1人で過ごすことも大好きで、今の海外生活で友人とすぐに会えないこの状況ですら、むしろ1人の時間が増えて都合がいいと感じることも多々あります。こちらでできた友人にも積極的に会おうと思わないのです。前世を見てからというもの、私は好き好んで1人でいるのだなと、あらためて思います。
私が見た前世では、世界に自分一人きりだった場面が多くありました。そうすると、見えた前世自体に整合性はなかったのですが、それぞれの前世で自分自身に心当たりのある姿が断片的に見えました。そして、全て今の自分のことなので、前世の中で彼らがしている行動に共感が持てました。
自分で歩くというメッセージに対しても、私はこれまでの人生で自分にできることは多少無理してでも行ってきたので、なんとなく理解できている気がしています。
おそらく、私はこれまでの前世での経験を踏まえて今の人生を歩んでいるのです。一人で居たいけれども、人に会わなければとは思います。たまには多くの人を呼んでパーティーを開いたりもしています。一人で居たいのに、心のどこかでこれでは駄目だと思うのです。人生で色んなことに挑戦すべきだと自分を奮い立たせることも多くあります。一人だけれども海外旅行に行って、遠くの世界も見てきました。
しかし、前世を見てからというもの、一人で居たい自分が一人でいるのは自然なことで、かえって人に会わないことに納得し始めました。これは逆効果でしょうか。
一人でいるだけではつまらないこともあるし、色々な人に会って刺激が欲しいのです。でも特に社交の場に赴かずとも、自分の閉じた世界で過ごすことが心地よくて、むしろ誰にも会いたくないというような気持ちもあります。
私には忙しい女性に対する憧れがあることにも気づきました。しかし忙しいのは全く好んでいないことも気づきました。


以上が私の初めての前世療法についてなのですが、実はまだこの前世療法は、受けた内容にとどまらず他の出来事も始まっているようなのです。
前世療法をどこで受けるか考えている時に、大体の候補で優先順位をつけていました。するとしばらくして、第一候補に決めていた今回のカウンセラーと面識がある人に知り合いました。今の私の海外住まいから近いところでです。こういう偶然って、まさに偶然は必然ということなのでしょうね。海外で近所で出会ったので、まさかそこでつながっているとは思わず、なぜカウンセラーとその人が既に知り合いなのかと、ただただ不思議でした。
そして、私が前世療法をそのカウンセラーの元で受けた際に、私が意図せずその共通の知人の話題になりました。その時に知ったのは、その人が間も無く一時帰国するということでした。しかし、私の帰りの便が立った後ということで、どうしても三人で会うということには繋がらなかったのです。カウンセラーが言うには、私が全くインドに関係のない国にいること、そこで私とカウンセラーとの共通の知人に出会っていることなど、物語が繋がり始めているのだということです。その時に日本で三人で会えないのは、また別の機会に、または海外に戻ってから会う必要があるのだろうということでした。
なんだか物事って、私の理解を超えて動いていたり起きているのだなと感じています。


前世療法を受けてから、何か都合が悪いことが起きても良い側面を見れるようになりました。私はそれによって何かを失っているのではなくて、何かもっと良い出来事につながっている気がしています。何しろ、自分の気づかないところで色々起きていたのですから、これからも些細で気にも留めないようなことが、将来振り返って理解できるのだろうと思います。
自分が気にしていることも、自分さえ気にしなければそれでいいんだと思うようになりました。人の目を気にするということは、結局自分で勝手に気にしていることに過ぎないと思うようになっています。
まだ自分の人生で何かありそうで、これからも前世療法で見た自分の姿から気づくことがあるのだと思います。
ひとまずこれで記事を終わります。