クルフィーの色~インド.料理.旅など~

ひたすらインドとヒンディー語について綴られるブログです

何もない空っぽの自分

なんだか、私には何もないと感じることがあります。

去年の夏からそんな時間が増えました。気づけば会いたい人もいなくなり、行きたい場所もなくなり、食べたいものもなくなっていきます。

人間なので、体のリズムで思考が左右されることもあります。でも、そんな体の不調時を除けば、何も考えが浮かばなくて、何も欲しがらなくて、本当に私には何もないと感じることがあります。

そんな時間はすごく楽ではあります。あれが欲しくてたまらないけれど手に入らないとか、誰かに会いたいのに会えなくて寂しいとか、そういう苦痛が全くないのです。もはや感情すらないです。

その一方で、人間らしくないなとも自分の姿が見えます。本当に何も欲しいものはないのかなって、考えることにもつながります。ただ、穏やかでいられているので、とりあえず何もなくていいやって、収まります。

いつもブログを書けるときは、何かがあるときです。自分の欲求とか、葛藤とか、知識とか。今日はというと、昨夜の時点でいろんなことが渦巻いて、なんかブログに書けそうだなって思ってから、記事作成画面を開いています。それなのに、1時間くらい何も書くことが思いつかなくて、なんかやっぱり何もなさそうだって思って記事作成画面を何回か閉じていました。

昨夜は体調と出来事が色々と重なって、気持ちの浮き沈みが激しかったのですが、今朝になったら体調が平常に戻っていたらしく、ブログに書けそうだなと思ったことも、今思い浮かばなくなってしまいました。

 

私が何もないと感じる瞬間は、たとえば食べ物で言うと、このレストランに行ってみたいとか、日本のこれが絶対に食べたいとか、そういう気持ちが起こらないときです。私はかなり酒飲みなのですが、アルコールも自ら進んで飲まなくなりました。甘いのものも大好きですが食べず、辛いものも今はチリパウダーを全く使わずにカレーを作ったりしています。無くても生活できるものが、どんどん減っていくんです。

インドにも、全く行かなくて平気です。この先一生行けないと決まったとしても、何もない状態の私にはなんの影響もありません。

日本ですら、行く理由がないのです。欲しいものもないし、食べたいものもない、行きたい場所もない、会いたい人もいない。

最近は日本にいる親戚に、私に会えない寂しさから、日本に戻ってこないのか、親不孝だとか罵られました。それでも、私は寂しくないですし、みんな元気で幸せでいてくれればいいなと、ただそう思います。実際、日本にいないのは私一人なのです。彼らには周りにたくさんの親族がいて、もっと簡単に会うこともできます。むしろ私の方が海外で一人でいるので、日本の親族はここに誰もいないのです。私がいないから自分達が不幸せだ、あの人が悲しんでる、そんなふうに思っても無駄だと思うのですが。その人たちが会いたいと望んで、私がすぐに日本に向かえればいいのですが、コロナに戦争が起こっている近年、思うように帰れません。

 

友達にも会いたいという気持ちがなくなりました。自ら会いに行こうという気持ちがないだけで、会えるのは嬉しいと思います。きっと楽しいでしょう。でも、今は友人たちがそれぞれ元気でいてくれればいいなとだけ思います。

 

こちらでの日本人の付き合いも一切していません。会いたい人がいません。

こちらで、日本人に意図的に悪い言葉をかけられることが、ここ数年で多かったです。そんな言葉を使わない人は、お互いに会わなくても幸せなので、会おうということになりません。わざわざネガティブな言葉を聞きに会いにいったり交際費をかける気にはならないので、ちょうどいい出来事なんかが重なったりして、会う機会を消しました。

仕事もないので、やることが何にもありません。あまりに私は仕事がない人生を送ってきて、仕事したくてもする機会に恵まれず、いい加減に執着するのをやめようと思い始めました。仕事したくても、逆に仕事したく無くても、私に仕事はないものはないのです。それに振り回され苦しむ自分が無意味すぎて、もはや関与したくありません。自分が働きたい欲求をなくして、周りを気にしなくなるようになったらいいです。

以前人に言われて酷く憤りを感じたのが、「仕事をしなくてもいい」っていうことでした。私が仕事をしたいのにどこにも雇ってもらえない人生を歩んで、雇ってもらえても仕事がないから苦しんでいるというのに、どうしてそんな心無い言葉を本気で私に言えるのだろうとそのときは思いました。私の仕事が見つかったかどうか、こちらから何も話さないのに、相手から振ってくるんですよね。その人は私が働かなくても生活できている状況をひどく妬んでいて、仕事をしないで東京の一等地の高層マンションに住むことを夢見ている人でした。私にはその人が望むような超高級マンションを買うお金は持っていませんし、仕事があるなら喜んで働くでしょう。その人の方が働いているのでよっぽどお金を持っているでしょうし、私からその人に一度も会いたいと言ったことはありません。それでもわざわざ私を呼び出し、妬んで、私の働きたい気持ちを無視して、お金あるんだから働かなくていいと言ったのでした。

仕事したくないなら辞めればいいと思います。私が仕事をさせているわけではなく、その人が自分で選んだ仕事について収入を得ているわけです。私を妬んでもその人が望む夢の生活は、その人にしか手に入れられません。私がほぼ無収入でも生きられているのは、単に周りの人がこんな何もない私でも支えてくれる人ばかりだからです。それから高級マンションでなくても、居住環境に満足できて、お酒も飲みに行かず、今となっては高級な食材や外食にも興味がなく、自分の身の丈に合った生活を満足して受け入れているからです。決して高級マンションでワインを飲んで食事したいというその人の夢のような生活は送りませんし、無職でまったくお金持ちな人間ではないのに、その人はもはや幻想の私に嫉妬していました。実際の私はどこにも雇ってもらえないような人間で、その人が妬む価値もありません。何にもない、何にもできない、そんな人間を、なぜしつこく誘い続け嫉妬に駆られてイライラしながら過ごしたのか、本当にわかりませんでした。私に構っても利益はないですし、ネガティブな感情で溢れるだけです。

もし私がその人の立場だったら、仕事がある人が、仕事したくてもできなくて苦しんでいる人に対してそんな言葉をかけられません。高級マンションに住まなくてもいいのでは、などと私が言うこともないでしょう。欲しいのに手に入らなくて辛い人に対して、そんな言葉はかけられません。

その場にはもう一人、私に仕事しなくていいじゃんと言った人がいて、その人は不妊で悩んでいたのですが、仮に子供がいる人から「子供いなくていいじゃん」と言われたらどう感じるのでしょう。その人も仕事したくない人でしたけど、もしそれで仕事のない私を妬むのなら、ただ仕事しなければいいと思います。お金が欲しいから仕事しているんでしょう。私もお金が欲しいから仕事したいです。何もなくて暇な時間をお金に変えたいです。そのときは仕事のない私をその人たちが羨んで、もはや妬んでいるというのがひしひしと伝わってきていて、その人たちの話す内容もわざわざ人が不幸に感じていることばかりだったので、もう飲みに誘われて付き合うのも最後だなと感じました。

妬むと言うのは、その人が不幸であればいいのにと願っているようなものではないでしょうか。その人にお金がなければいいのに、名声がなければいいのに、美しくなくて異性から振り向かれなければいいとか、転落して幸せでなければいいのにと。

似たように、結婚したいのに相手に巡り会えない人がいて、既婚の人に「結婚しなくたっていいじゃないか」と言われたら、どう感じるでしょう。

努力をしても、子供を授かったり、結婚したりできるものでもないでしょう。すでに結婚して子供も産まれている、夢を手に入れている人からそんなものなくていいと言われても、反発したくなりませんか。苦しんでいる人は、それを得るために必死になって努力している最中なのだと思います。それにもかかわらず、その努力もわかろうとせず、ただ無責任な言葉をかけるのは、心無いと思うのです。考えによっては定められた運命には抗えないですし、未来は自分で変えられるとして、前向きに努力したからといって望んだ結果が得られるかはわかりません。持って生まれた体や容姿、環境などがこの世に起こる出来事に関わるでしょう。勝手な考えを相手に正論として押し付けた挙句、相手が持っているものがよく見えるからって、妬んだり悪意を持つ理由にもできないでしょう。

人によっては、そうか、子供いなくてもいいんだ、結婚できなくてもいいんだと心が軽くなるかもしれません。でも私は、相手を思いやる意図を持って言わなかった言葉には、ただ傷付けるだけの発言にしか思えてなりません。

そうして、一部の人から心無い言葉を浴びせられ、私は人にわかってもらいたいという承認欲求がなくなっていきました。わかってもらっても、自分が喜ぶだけです。それは一瞬を気分よく過ごせるだけで、その後はまた下降します。友達に会っても、お互いを喜ばせるような言葉をたくさん掛け合うでしょう。でもグルたちの教えによれば、友達はエゴを強める存在です。エゴを強めれば強めるほど、けっきょく苦しみます。それから、人はだんだん孤独になっていくもののようですから、いずれ寂しいという気持ちなどなしに、一人ただ在るだけになります。人間は人と同じようになろうとして、他人より良い生活を送ることだけ考えているから、幸せを追い求め続けるそうです。なんで人間だけが同じになろうとするのかしらと、芸能人の美輪明宏さんも似たようなことを言っていました。

私が仕事がなくて苦しむのは、周りの人の目が気になるためです。世の中働いている人の方が多く見えるのに、どうして私は働けないのかと思います。それで働く気がない食って寝るだけのやつだという悪意を人から感じることもありますが、私自身はむしろ働きたくて仕方ないのに、手に入らないから苦しみます。だからもう、働いている誰かのようになりたいとか、仕事が欲しいとか、そういう欲求を全部無くしたいです。全部なくしたいという、そういう欲求があります。人に何か言われて傷つくのもやめたいです。記憶に残って、体のバランスが崩れた時に頭にその時のことが蘇って、ずっとイライラが止まらなくなったりすることもあるので、そもそも私が悪意すらなんとも思わないようになれたらと思います。

今ずっと私のそばにいられるのは、お互いに依存心のない人です。一人で楽しむことができて、あなたがいなければいけないとか、あなたがこうしないから私が不幸せなんだとか、そんな風に言うことがたまにあったとしても、心の根っこでは一人でいられる人たちです。お互いを思いやって、愛し合って、一緒にも別行動もできます。

 

今の私は、死への価値観も変わってきているかもしれません。何にもないとき、いずれ人が死ぬと言うことが怖くないんです。自分はただ生きているんだという感覚だけがあります。ただ在るという感じです。

 

色々無くなって、そのために自分が誇れるものとか、自分にできることは何もないと感じることが増えました。いつになっても仕事にも就けないですし、ただ周りの人たちに支えられながらしか、生活を送れません。生活力は自分が生きる分にはあるけれど、何かをお金に変える力や能力は私にはありません。ますます、周りの人はしっかり働いて自立して、能力もあって、仕事を任せられて、すごいなって思います。去年あたりから、もうあまりにお金を稼げない自分がなんの価値も持たないと思えることが嫌になって、仕事をしていない自分でも受け入れられるように、考えを改めようと努力しています。早く死ねばいいけれど、別に死ぬ必要もないし、働かないことで誰かを傷つけたりするわけでもなく、まだ生きているうちは楽しもうと、いつも気持ちを持ち直しています。そもそも生きていることに意味なんてなくて、グルの言葉によれば、ただ生まれたからいま生きてるだけです。目的とか使命とか、ないです。生きるのに必要なこともないです。

 

私から人に対しては、働いていない人がいてもなんとも思わないのです。子供の頃からずっと引きこもりで年金をもらう歳になってる人なんかを見ても、非難するような気持ちは全く浮かばない。それなのに、自分のこととなると働ける体があってメンタルも普通なのに、何もはたらかなくて怠惰にも程があるとか、無能すぎると思う時があります。でも、そんなふうに悲観的になっても、仕事がないことを思い詰めても、仕事はありません。探してもないし、仕事くださいと言ってももらえないし、暇している私にも頼まれることはないので、今は何もないのです。

 

最近何もなさすぎて気づいたのが、いま幸せだと感じる瞬間が、洗濯物を外に干せるときです。これはちょっと自分でびっくりです。客観的に見て些細すぎることなので。

私の住んでいる地域は日照時間とか時間帯が日本と異なるので、乾燥機を使うことが多いです。しかし今は洗濯物を外に干せます。乾燥機と違ってタオルとかパリパリに固くなるのですが、それでも心なしか干したものから太陽エネルギーみたいなものを感じます。私は何もないけれど、太陽はそこにあるなって。電気もなく乾燥機も持たなくてもいいんだって、気持ちよさを感じます。

 

 

このブログ上で、今回は全然インドに関係ないことを書いているようですが、今の私がこんな風に綴るのは、インドのグルたち、インドで悟りを開いた仏陀、インドで出会った人々や食べ物による経験が根底にあってこそです。

何も目的を持つ必要がなく、学ぶ必要もなく、誰かに求められたり好かれたりする必要もなく、ただ全ての現象をそのまま受け入れること、ただ起こっていることを見ること、自分の幸せを人に委ねなくていいということ

体のバランスが崩れると、苦しい気持ちでいっぱいになりますが、穏やかでいられる時は、何の感情もありません。なんの疑問もなく、欲求もなく、ただ空っぽの自分がいるだけで楽です。

自然に生きたい インド産オーガニック食材、環境保護 「本物」なんて、実際はわからない

インド系の食料品店に行きました。

最近ではインド産オーガニックの食材も売っていたりして、新しい時代を感じます。一昔前より、オーガニックの物が多く出回っている印象を受けます。価格も手頃な感じです。

日本で見かけることがあるかは定かではありませんが、マントラ24 というブランドがオーガニック食材を展開しています。インド産なので価格は安いです。

ここ数年で、私はできる範囲でオーガニックのものを買うようにしています。食べ物にしろ、オーガニックコットンの服にしろ、オーガニックを選びがちです。

そもそも自然なものを選ぶようになっているので、何か買う時は天然素材だったり、環境に優しいものを選択するようになりました。

初めは味が美味しいものを選んでいて、オーガニックの物を買う機会が増えました。それでもオーガニックのほうが美味しくないものも出会ったことがあり、そんな時は非オーガニック製品であっても、味や鮮度の良いものを選びます。

洋服の場合は着心地や長く着れるものを選ぶと、コットンや天然素材の布地になるので、オーガニックコットン製を選んだりします。プラスチック系の合成繊維は、資源の枯渇や、燃やした時の有害物質のことが頭をよぎってしまいます。

それから、人や環境のことを考えるようになりました。オーガニックのものを買う以前は、農薬を使うことで育てる食物や土壌を汚染するばかりか、生産者の人にも害を及ぼしているという事実に、気づくことがなかったのです。無農薬で育てるのは大変なことだから、農家の人もよく育つようにあえて農薬を使っているのだからと考えて納得していました。

以前はオーガニック製品が少なく、値段も高いイメージがありました。けれども、近頃は値段がかえって安かったりするので、金銭的なことを気にすることが減りました。

 

つい先日、私がよく動画で講演を聞いているインドのサドゥグルが土壌を守るためのキャンペーンを行なっていました。バイクで各地を周り、土壌についての講演や募金活動をするというものです。

私には何か特別できることはないので、ただわずかばかりの募金をしました。

私にできないことも、影響力のある人がこうしてたくさんのボランティアスタッフを率いて、各国の要人と対話したり講演をしてくれる。そんなことを感じながら、資金として私からの募金を送っています。

その前にサドゥグルが行っていた、カーヴェリー川の枯渇に対する植林事業の時も募金をしました。今回の土のキャンペーンに関連して、改めてその後の状況についても情報を得ましたが、木が育って近隣の農家の人の収入も向上しているようです。

 

 

私は生きていて、身の回りから出るゴミを完全に無くしたり、排気ガスや物質を出さず、自然の植物や動物のように自然環境の中にいるように暮らすことはできませんが、せめて環境や人体への負荷を減らす選択をしながら過ごせたらなと思っています。

こんな風に生きている以上、地球をすり減らしながらしか人生を過ごせないんだろうと思うのですが、できる限り自然に在りたいですね。

 

ところでインド食料品店でついでに買ったのがこちらのお香です。「本物のウード」と書いてあるのですが、本物と言われると逆に疑念がわきます。

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焚いてみると煙の量が異常で、部屋中真っ白になりました。でも香りは好きです。中身が何なのか謎ですが。ウードは沈香のことらしいのですが、高級香料なので本物だろうと偽物だろうと、ちゃんと嗅いだことがありません。今回試したのが初めてです。

 

インドのお香・樹脂編 キャンドルでの簡単な炊き方

さて、前回はインドのお香からナグチャンパをご紹介いたしました。

今回は、樹脂を焚いて楽しむお香について綴っていきたいと思います。樹脂は、特定の木から採れる硬い素材です。硬いと言っても手で割ったりできる程度の強度しかなく、潰して粉にすることもできます。色は元の植物によりさまざまですが、黄色、茶色、黒などがあります。

まずは、主な樹脂のお香の解説から始め、その後簡単な樹脂の焚き方について紹介していきますね。

 

【ベンゾイン】

ベンゾインは日本語で安息香とも呼ばれます。アロマセラピーの世界では精油としても扱われていますが、元は木から採れる樹脂です。インドではベンゾインはサンブラーニー(Sambrani)と呼ばれます。サンブラーニーカップというものが売られていて、着火できるカップの中にベンゾインなどお香のミックスが入っています。ローバーンと称されることもありますが、こちらは主にベンゾインではなく、フランキンセンスという別の樹脂を指します。実際、ローバーンの語源はアラビア語にあり、フランキンセンスを指す言葉です。

焚くとバニラのような香りがすると一般的に説明されています。空間を浄化し、神聖に保つ効果があると言われています。

Benzoin (resin) - Wikipedia

 

フランキンセンス

フランキンセンスは日本語で乳香とも言われます。フランキンセンスは大きく学術名のボスウェリア(Boswellia)で総称されますが、インドにはボスウェリア・セラータ(Boswellia Serrata) という独自の種類があります。フランキンセンスの中でもセラータは特に関節痛などに効くと言われています。ヒンディー語でシャッルキー(Shallaki)です。ベンゾインの項でも説明したように、フランキンセンスはローバーンとも呼ばれます。焚くと穏やかな甘くスッキリした香りがします。インドのギー、グッグルというお香とともに、大きな香炉で焚いて使うこともあります。邪気をはらい、精神統一など精神に働くと言われています。また、アーユルヴェーダでは呼吸器系の症状に、関節の痛み、そして歯の痛みなどに効くとも言われています。

Boswellia serrata - Wikipedia

【グッグル】

グッグルはヒンディー語で、グッグルの木とそこから採れる樹脂のことを指します。この樹脂は英語でブデリウム(Bdellium)と呼ばれます。グッグルの木はCommiphora Wightii という木で、インドでは特に Commiphora mukul と Commiphora roxburghii と呼ばれる木からグッグルが採取されます。グッグルはミルラ(Myrrh, Commiphora myrrha)という木と同じミルラノキに属していることもあり、ミルラの樹脂に似た匂いがすると言われます。インドでは古くからユナニ医学とアーユルヴェーダにおいて、グッグルは薬として使用されてきました。

Bdellium - Wikipedia

↑専用カップに入ったグッグル

 

〈樹脂の焚き方〉

樹脂は熱すると溶けて煙と共に蒸発するという特性があります。一般的なお香の焚き方は、日本では香炉に香灰を敷き詰め、その上に着火した炭を置いて、そこに樹脂を乗せて熱するという方法です。炭の上で熱せられた樹脂は溶けて、香りを放ちます。煙も出て、空間や人、ものを浄化することもできます。

しかし、私はお香用の炭を使いません。では一体どうするのかというと、炭の代わりにロウソクを使っています。ロウソクは意外と火の真上が熱くなります。その熱を利用し、キャンドルホルダーに立てたロウソクに火をつけ、その上にアルミホイルを乗せて、さらに樹脂を乗せたものを間接的に熱して焚きます。

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あまり火から遠すぎると樹脂が溶けないので、ロウソクの減り具合やキャンドルホルダーの形によって、アルミホイルの位置を調整します。次第に樹脂が溶けて、煙が立ち上ります。樹脂用のキャンドルホルダーもありますが、そちらは樹脂の受け皿の高さが調整できるものが多いです。ロウソクは使い切りの小さいもの(ティーライトキャンドル)をセットするようになっています。樹脂が溶け始めるとこのようになります(下の画像を参照)

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もし炭を使って樹脂を焚く場合は、香炉など燃えない素材に香灰、または塩、砂などを敷き詰め、その上に着火した香炭など炭を載せます。それから樹脂を炭の上で熱していきます。熱した時に敷き詰めた素材も香りを放つので、香灰以外を使用する際は、ブラックソルトなど香りの強いものはおすすめしません。ただお皿に塩を盛っただけでも、そこに炭を置いて樹脂を焚くこともできますし、線香のような長いお香も立てることができます。

本当に香炉にはさまざまなタイプがあり、ネットがついた金属製の香炉もよくあるタイプになります。雰囲気のあるデザインのものが多数ありますが、金属ネットの上で燃やすのと、香炉自体が金属のため、場合によっては使用中に非常に熱くなります。熱くなってから直接手で触れることのないようにご注意ください。ソープストーン製の香炉やキャンドルホルダーも同じく火傷にご注意くださいね。

(↑のような樹脂のお香と香炉、炭のセットは、初心者の方に始めやすいかもしれませんね)

この記事を読んで樹脂のお香に興味をもった方は、ぜひお気に入りのお香立てや素材を探して香りを楽しんでいただければと思います。

 

インドのお香とは一体?ナグチャンパの香りの原料を解説

インドの香りには、白檀など日本語でも馴染みのあるものから現地特有の物まで様々に渡ります。インドは香料の原産地として、高級な原料の宝庫です。先ほど挙げた白檀も、サンダルウッドオイルとして精油が流通していますが、インド産のものは特に高価です。

インドではお香がよく焚かれます。お香は単に香りを楽しむ意味もありますが、空間を清めるために使うこともあります。スピリチュアルな意味合いによれば、お香や香りのする樹脂を焚くと、空間のエネルギーを高める効果があるそうです。さらには屋内に居ながら、その場を自然の中にいるかのように変える力があるとも言われています。瞑想、虫除け、宗教的慣例など、お香を使うシーンは様々です。

インドのお香の中でも有名なのは、ナグチャンパと呼ばれる製品です。

(こんなパッケージの物)https://amzn.to/3oHr3T3

ナグチャンパの中にも香りの種類がたくさんありますが、青いパッケージのものが恐らく最もポピュラーなものになります。

ナグチャンパについてはウィキペディアに記事がありますので、そちらを主に参考にして記していきます。

Nag champa - Wikipedia

【ナグチャンパの香りの原料】

ナグチャンパの主な原料はサンダルウッド(白檀)とチャンパク(金香木)、またはプルメリアの花(frangipani, Plumeria rubra, champa)です。

上記の中でもチャンパクと呼ばれるものが主原料として利用されます。(金香木、champak, sonchampa, Magnolia champaca, Michelia champaca)

 

今回の記事を書くに至ったのは、私がナグチャンパの原料になる植物について、ややこしいと思っていたのが発端です。上にカッコ書きで様々な呼び名を学術名、ヒンディー語名、英語でも記していますが、ナグチャンパ(ヒンディー語の発音でナーグチャンパー)の「チャンパ(champa)」という文字列が異様に多いと思いませんか?チャンパーと付く名前だけ見ると、類似の原料を使っているのかもしれないと想像されるかもしれません。しかし、同じチャンパーの中でも、全くと言ってよいほど共通性がありません。

まず、インドにはナーグチャンパーと呼ばれる植物があります。Mesua ferrea, 別名をセイロン・アイロンウッドやコブラサフランと呼ばれています。ナーグチャンパーはナーグ・ケーサルとも呼ばれ、直訳するとコブラサフランです。テリハボク科のセイロンテツボクという植物に当たります。Mesua ferrea - Wikipedia

しかし、お香のナグチャンパはあくまで商品名。どうやら実際はお香の原料として、同名の植物であるナーグチャンパーは入っていないようなのです。

先にお伝えした通り、お香であるナグチャンパの主原料はチャンパク(金香木)です。チャンパクはマグノリアモクレン木蓮)の仲間になります。Magnolia champaca - Wikipedia

一方、プルメリアはよくリゾート地のイメージに出てくるような白い花びらに中心が黄色くなっている花です。ナグチャンパに使われるのはPlumeria rubra というピンクのプルメリアです。プルメリア - Wikipedia

このプルメリアはラール・チャンパーと呼ばれ、赤いチャンパーと訳すことができます。しかし、植物のナーグチャンパー(コブラチャンパー)はテリハボクの仲間ということでしたね。

(さらにプルメリアは、インドの一部の都市で話されるボージュプリー語ではチャンパーという名称でウィキペディアには載っています。ネパール語を見ると、またまた別の植物を示すヒンディー語と同じく、カナク・チャンパーという名前です。そして、サンスクリット語ではチャンパカなのですが、表記的にはヒンディー語の発音で読むとチャンパクになります。チャンパクはヒンディー語で、ナグチャンパの主原料であるモクレンの仲間ですよね。)

そして、ナグチャンパに主に使われるチャンパクには別名があります。こちら、ヒンディー語でソーン・チャンパー(イエローまたはゴールデン・チャンパー)といいます。

これらの植物の種類がそれぞれ全く異なることから、果たしてどのチャンパやらチャンパーなのか。そもそも「チャンパー」とは一体何を示す言葉なのかという疑問がわきますよね。実は、ヒンディー語チャンパーは、チャンパク(モクレンの仲間)のことです。

かといって、その他チャンパーと付く植物がモクレン属でないことがあるのでややこしいのです。コブラチャンパーも、赤いチャンパーも、チャンパー(モクレンの仲間)ではありません。

他にもヒンディー語で主にチャンパーと付く植物を調べましたが、それらはまったく植物の種類がバラバラでした。

ここで再度確認すると、お香のナグチャンパの主原料であるチャンパク(チャンパー)はモクレンの仲間です。ラール・チャンパー(赤いチャンパー)はプルメリアの仲間となっています。それから、お香のナグチャンパに同名の植物は使われていません。植物のナーグチャンパーは、Mesua ferrea(テリハボク科セイロンテツボク)という別の植物です。

ちなみにヒンディー語・日本語辞典でナーグチャンパーの項目を見ると、テリハボク(Calophyllum inophyllum)という植物名が記述されており、ウィキペディアに登録されている 種類である Mesua ferrea は確かにテリハボク科ですが、セイロンテツボクという種の植物であり、テリハボク種ではありません。

テリハボクという植物は、ヒンディー語でスルターン・チャンパー(sultan champa)です。

テリハボク - Wikipedia

調べれば調べるほど、何が基準となってチャンパーという名前が付く植物がこれだけあるのか定かではありません。

知人に聞いた話ですが、ナグチャンパのお香は霊感のある人には浮遊霊を追い払うのに使うほど絶対的な製品だそうです。お部屋や家全体、または心身の浄化にと、日常的に使う方は多いので、日本でもネットショップではナグチャンパセットが見られます。

私は日頃ナグチャンパ以外にも、日本のお香やセージ、パロサントなど香木も焚きますが、霊が見えるような類の霊感はないので、ただ心身が落ち着くとか、邪念が浄化されてる感じがするなという気がしています。ヨガマスターのサドゥグルもお香は人にではなく、空間に作用してエネルギーを高めると話していました。そこで、サンブラーニーという樹脂を焚くことについても話していたのですが、それの紹介はまたの機会にしましょう。

 

 

この記事でぜひ紹介したかった樹脂系のお香(フランキンセンス、ミルラ、ベンゾインなど)に、香木もあったのですが…

インドではないですが、パロサントにホワイトセージも焚くとモクモク煙が出て家全体そして自分自身の浄化によいです。

トナカイの肉とハツ(鶏の心臓)カレー

インドで一般的なカレーといえば、まずは野菜のカレーかと思われます。

ベジタリアンが多い国なので、宗教などに関係なく誰でも口にできるものというと、やはり野菜がメインの食材にあげられると思います。

続いて豆のカレー、肉を使ったカレーなど、さまざまな料理はありますが

インドに住んでいない私は、色々な食材をカレーにしようと試みたりします。

今回使ったのは…

トナカイの肉です。

 

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トナカイの肉ってとても柔らかく、臭みもないので食べやすいです。率直に美味しいお肉です。

醤油と砂糖で甘辛く調理しようと、トナカイの肉を用意していたのですが…

トナカイの肉はマイルドな分、味がパンチに欠けるので、気づいたら鍋に油を注いでマスタードシードを炒めていました。そのまま醤油など入れればよかったのですが、もう頭の中ではこのトナカイの肉にどのスパイスを入れたらこういうカレーになりそうだな、あの野菜に、この食材に…と、レシピが組み立てられていたので、カレーにしてしまいました。

その時に使ったのはサラダ油、マスタードシードマドラスカレーパウダー、ターメリック、チリパウダー、パプリカパウダー、ガラムマサラ、アーモンドパウダー、生クリーム、トマト、玉ねぎ、生姜など…でした。ジャガイモと赤パプリカも合わせています。

生クリームで煮込んだトナカイのカレー、おいしかったです。当たりでした。

 

 

続きまして、新鮮な鶏の心臓が売っていたので買ってきました。

焼き鳥のハツとして、塩を振って食べようと買ったのはよかったのですが、冷静に考えたら450g くらい量があって、とても一人で食べ切れるハツの量ではないことに気づきました。

そんな訳で、焼き鳥の後は全部下茹でしてから細かく刻んで、カレーにしました。

パキスタン系の内臓のカレーにカターカトというのがあるのを思い出したので、味付けはその辺り風のスパイスをイメージしました。インドとパキスタンの国境付近、ラホールとか、シク教徒とか、行ったことも見たこともない場所のイメージで。

使ったのはサラダ油、クミンシード、マスタードシードベイリーフ、荒く潰したコリアンダーシード、チリパウダー、ターメリッククローブ、しょうが、にんにく、トマトなどでした。肉ばかりなので、グリーンピースも加えました。

味はスパイシーです。ハツの歯応えが感じられて、バスマティライスと合わせましたがおいしかったです。

ちなみに、荒く潰したコリアンダーシードがこのカレーの決め手です。

 

パキスタンでカターカトを頼むときは、ズラリと並んだ内臓から好きなものを選んで、大きなフライパンの上で炒めたあと、カタカタカタと高速で内臓類を刻んでから味付けされるそうです。現地の味をいつかは食べてみたいですね。

でも、インドでオールドデリーを回る方が、肉料理を探しに行く旅なら行きやすいかもしれません。

 

 

私は手元にあるスパイスと材料で、出来上がりをイメージしながら適当に混ぜて調理をしていますが、スパイスを使った料理に馴染みがない方も、インド料理の本を参考にしたり、インドから輸入されているミックススパイスを使って手軽に調理することは可能です。

 

 

こちらの本は日本の食材を多く取り入れたインド料理のレシピを紹介しています。2019年の書籍ですが、レシピを書かれたのは有名なインド人コックの方ですね。まだインド料理を作り始めた頃(かれこれ10年以上前)に、お名前拝見したことがあります。

 

今の自分の気持ちを整理するための長文

ラマナマハルシのようなグル、または聖典の教えを学んでいると、なにかに執着することがよくないという言葉が出てきます。

私はここ一年で、どんどん自分の持ち物を手放して、持っているものでさえいつでも手放せる心の準備が整いつつあるのですが

ふと、ヒンディー語の辞書が目に留まりました。昨日の昼頃、私は異常な眠気に襲われて、まるで何かの術にかけられたかのように5時間ほど眠り続けたのですが、その時見た夢で「これは私にとって大切なものだ!」と、このヒンディー語の辞書を周りの人から必死に守ろうとしている場面があったのです。

私の深層心理が出たのでしょうか。確かにこのヒンディー語の辞書は、手放す気も、手放せる心の準備もありませんでした。

 

ラマナマハルシの教えの一つに「あなたはあれやこれや『私の』所有物を放棄する。もしその代わりに『私』と『私のもの』という想念を放棄すれば、すべてが一太刀で放棄される。所有の根本原因が絶たれたからである。」という言葉があります。

私は全てのものを捨て去って生活をすることはないですが、このヒンディー語の辞書に対する私の執着も、今日をもって薄くなりつつあります。辞書の存在に気づくことで、なんとなく私との関係性みたいなものが薄れた気がします。

 

これがなくては駄目だとか、この人がいなければ駄目だとか、そういう依存や執着した考えが自分を縛っているのだということに、どんどん気づくようになっています。

これがなくても生きていけるとか、自分という存在がただ在るだけでいい、周りの人も物も、自由にしていればいいという心持ちでいる方が、楽だなと感じるようになりました。

自分はこうでなくてはならないとか、周りはこうであるべきだとか、そういう考えも何も起こらない時、最近とても楽です。

逆にそういった考えばかりが頭を占める時、ただ気分が重いです。自分で自分を苦しめているなと思います。

 

私は先月をもって続けていた仕事を辞め、現在は無職です。だから仕事について、お金についてますます考える時間が増えています。でも、まだ新しい仕事には出会っていません。気持ちの起伏があり、気分が下がっているときは明らかに仕事がない現状についてマイナスに見ています。

けれども、今このブログを書いているのは、少し心が落ち着いてきたためです。もうちょっとポジティブに自分を見ることができます。

ネガティブな時は、どんなに聖典やグルが「定まっていない仕事はできない」と言っても、それでも私は仕事して稼ぎたいんだ!という気分になりますが、気持ちが落ち着いている時は、仕事をしたいという欲求が収まって、非常に楽です。どれほど私が日頃、仕事をしたいという欲望を抱えているかがわかります。

前の仕事にどんなに意義を感じられなくても、お金をもらえて働けるなら続ければよかったのかなと思うこともあるのですが、辞めてよかったのだとすぐ思い直しています。実際、自分がやり尽くして、辞めようと思ったわけですし。

 

 

「起こるべく定められていることは、起こるだろう。あなたはその仕事をするように強いられている自分を見出すのだ。それゆえ、高次の力に委ねなさい。思いのままに放棄したり、続けたりすることはできないのである。」

「定められた仕事を終えた時、それ以上する必要のない仕事は続けることができないのです。」

「あなたはあなたに定められた役割を果たさなければならないのです。」

 

こう言った言葉が頭の中を反復します。もしこれらの言葉がなかったとしても、私の現状は変わりません。だから、これらの教えを私が信じたとしても、結果は同じなんでしょう。

 

私が無職になって、周囲で何か変わったかというと、良い意味で何も変わりないということに気づきました。

変わったかもしれないのは、私の心の中でだけなのです。こうして働くこと、稼ぐことに執着しているうちは。

 

仕事がない私にはお金がないのかというと、そういうことでもないのです。それなのに、お金を貯めておきたいとか、ただ家でのんびりしているだけの毎日は勿体無いとか、そんな考えが自分を仕事へ駆り立てて、苦しめているようです。

 

だけど、そんな自分を苦しめるような思いも、毎日少しずつ楽にしていけるように、人生で学んだことを振り返っています。

 

カルマとか、運命とかは、あると仮定して過ごしてみると、かえって楽なことが増えました。

最近は面倒臭いお誘いとか、お願い事とか、カルマをこなしていくような気持ちでいます。やらないという選択もありますが、どんな結果が待っていようとも、変に未来を想像せずにやってみようという励ましになっています。

 

人間には未来を想像する力があるから苦しむのだと、確かサドゥグルは言っていました。

最近の出来事で、大切な人が緊急入院することになったことがありました。その時私はどうしようもなく不安になったのですが、それがきっかけとなり、この言葉の意味がもう少し理解できた気がします。

私はその人が非常に辛い思いをするんじゃないか、それが私をさらに苦しませるんじゃないか、自分にとって不幸な未来を想像して苦しんだのです。

そして、そんな未来を想像することは、現在起きてもいないことを妄想しているだけに過ぎないとわかりました。そんな未来を想像することで、既に過去にそれが現実化したかのような状態を作り、現在の自分を苦しめていたのです。でも、実際には未来にも、過去にも、そんな出来事はあり得ませんでした。ただの悪い妄想ですから。

「現在を見なさい」というグルの教えが、そのときわかりました。

入院した人は当初の医師の説明よりも病状が軽くすみ、無事に退院しました。

 

 

「体に執着するから失うときに苦しむ」ということ、この出来事を通してよく考えました。目の前にその人の体がなくても、私との繋がりがなくても、真実の上では消滅することがない。離れていても、本当は変わらず一緒にいるということ。

 

 

 

人生の転機に再びラマナマハルシに導かれる

先日の記事からしばらく経ちました。気づいたら仕事を辞めるべき理由ともなる出来事がどんどん積み重なって、オーナーに辞職の旨を伝えていました。こう成るべくしてなったんだと思います。

 

それからほどなくして、私の興味がなんとなくハーブに向き、それについて調べるべく本を探し始めていました。いつものパターンなのですが、AmazonKindle  Unlimited にて気になる書籍をいくつか見つけたので、メンバーシップに加入するボタンを押しました。私は今までAmazon内のサービスで、正規の値段でメンバーシップに加入したことはありません。いまこのタイミングで恐らく無料キャンペーンとかセールスを行っているであろうと踏んで、ボタンをクリックしたのです。案の定いまなら2ヶ月99円キャンペーンという表示がされたので、入会しました。それ以降にも加入を続けたかったらそれで構わないのですが、これまでにキャンペーンの期間を超えて読みたい本に出会えたことがありません。

ハーブの本は2冊読んで満足しました。それから、ラマナマハルシの本を読み始めました。以前に全三巻のうち、二巻まで読んだ記憶がありました。今回は第三巻から読み始めました。

今の私にどれほど必要だったのか、第三巻を数日で読み終えて、今また第一巻に戻ってきました。

 

もう瞑想中に三代目が流れることはありません(断言)

この2ヶ月ほどで私の中の意識が変化して、ラマナマハルシの教えがさらに深く入る土台が出来上がっていました。いまの私は、覚者達が言う一なるものへ目を向ける力が強いのです。これがどれだけの期間続くのか、これからもずっとそちらの方へとだけ向き続けるのかはともかく、今は理解や集中が深くなりつつあるのを感じています。

 

 

今まで学んできたり経験してきたなかで、食べ物についてが引っかかるようになってきました。振り返ってみても、サドゥグルの言う食べ物による心への影響とはいったい何だろうとか、ラマナマハルシの言うサートヴィクな食べ物とはどんなものなのだろうとか、ただ疑問に思う節がありました。インターネットでサートヴィクな食事を調べても、適切な情報を得られないだろうということを感じていて、ただ自分が食べたいもので体に良さそうなものを中心に食事を続けてきました。

そこで、今日はサドゥグルの食事についてまとめた本を手に入れようという着想を得て、インドでヒンディー語版を注文しました。

サドゥグルのインナーエンジニアリングの本を探していた際に、その本は検索結果に出ていたのを覚えていたのです。

本のタイトルは A Taste of Well-Being です。

できるだけ早く届く配送方法を選択しましたが、それでも到着は来月になるのではと思われます。

注文完了ページに表示された到着予定日を見て、長!と率直に思いましたが、届くのが楽しみです。

サドゥグルとラマナマハルシの教える食べ物が果たして共通なのかは知りませんが、私が単にヒンディー語を学ぶためにもこの本が有効なのは間違いありません。

 

ラマナマハルシの教えによれば、食べ物の性質が心に影響を与え、心は消化された食べ物に養われているということです。

集中力を高め、散漫を取り除くにあたり、身体的には消化器官や他の内蔵器官への刺激は避けるべきなので、食事の量と質を管理する必要があります。その上でサートヴィクな食事、刺激のない食品を摂取するべきだと言っています。

 

サドゥグルも人間は食べたものによって出来上がるのと、食べた後に元気を奪うものもあるからよく観察しろと言います。

 

サドゥグルはヨガ行者なので、ヨーギーとしての視点が主であり、私にはそこがラマナマハルシの教えと分かれているように感じることがあります。なので、本の到着を待って、まずはサドゥグルの食事に関する教えについて知ろうと思います。

 

" A Taste of Well-Being" のリンク↓

https://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/9351363783/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=9351363783&linkCode=am2&tag=kurfi-22&linkId=b080a31e7649f496782f3f8af4583733

 

 

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